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書籍「交通事故民事裁判判例集 第42巻 第4号」(P.1122~1128)


書籍「交通事故民事裁判判例集 第42巻 第4号」

二 争点
(1) 本件免責約款による免責の可否(原告が本件免責約款の「配偶者」に該当するか否か。)
(被告保険会社の主張)
ア 本件免責約款の「配偶者」は、内縁の配偶者も含むものであり、この場合の内縁の存否は、本件免責約款の制度趣旨を加味して解釈するのが相当である。原告と太郎とは、本件事故前から愛知県海部郡蟹江町内のアパート(以下、「本件アパート」という。)において、後記イのとおり、婚姻意思を有して事実上の夫婦として共同生活を営んでいたから、本件事故当時、原告と太郎とは内縁関係にあった。したがって、本件免責約款の適用により、被告保険会社は、原告に対し、本件保険契約に基づく保険金支払義務を負わない。
イ 原告と太郎との内縁関係の存在を根拠づける事情等
(ア)原告と太郎とが共同生活の開始に当たって二人で新たに本件のアパートを借りていること、約1か月経てば原告名義で賃貸借契約することが可能であったのに太郎名義で契約していること、被告乙山が同契約に連帯保証しており、双方の親も公認していたことなど、本件アパートの契約過程からすると、婚姻意思に基づき共同生活を熱望していた原告及び太郎が、親の同意の下、二人の生活の本拠とすべく本件アパートを契約したといわざるを得ず、単なる同棲の開始とは明らかに異なる。現に、原告は、損害保険調査会社の調査において太郎と結婚する予定で一緒に住んでいた旨回答している(乙ロ8号証)。したがって、原告と太郎との間には同居開始時に既に婚姻意思が存在していた。
(イ)原告及び太郎が衣食住に関する生活費を共同で負担していたこと、原告が本件車両を20回中5回程度の頻度で自ら運転していたことなどからすると、同居開始後、原告と太郎との間には、夫婦と認められる程度の共同生活が成立していたといわざるを得ない。
(ウ)原告は、現在も太郎の冥福を祈り、実家の仏壇で供養するほどの哀悼、冥福の意を有しているから、原告と太郎との間には、単なる同棲相手という関係を超えた、夫婦としての精神的結びつきが存在していたと言わざるを得ない。
(原告の主張)
 原告は、太郎の内縁の妻ではない。
 内縁とは、男女関係の社会的な質が「婚姻意思」に基づいた共同生活であることを要件とするものであり、婚姻に至らない、又は婚姻を想定しない恋愛関係は、内縁とは区別され、俗に「同棲」と呼ばれる関係である。
 原告と太郎とは、交際開始後5か月足らずで同棲に至ったものであり、当時、原告19歳、太郎20歳と若年であった。原告及び太郎のいずれの親族も原告と太郎との婚姻を予定しておらず、原告及び太郎を夫婦として扱った客観的主観的な形跡もない。本件アパートの賃貸借契約書には原告は「友人」として記載されており、転居に際しては、原告自ら転居費用を支出し、自ら電化製品を揃えていた。また、原告及び太郎は、各自が別途に収入を得ており、同棲後も、最低限必要な生活費は共同で負担していたが、基本的には各自が自己の資産を管理する完全な別産制であった。
 このように、原告と太郎の同棲には、婚姻意思の存在を根拠づける事実は認められないから、およそ内縁とは認められない。
 -略-
第三 争点に対する判断
一 争点(1)(本件免責約款による免責の可否)について
 -略-
(2) 本件免責約款の「配偶者」に内縁の妻が含まれることについては原告も特に争わないから、本件における主たる争点は、原告と太郎との間に内縁関係が認められるか否かであるところ、内縁関係は、社会的な婚姻関係であるから、これが認められるか否かは、婚姻意思をもってする夫婦共同生活の実態が存在するか否かによって判断すべきものと解される。
・・・
 以上検討したところによれば、原告と太郎との間には、同居開始の際にもその後にも、婚姻意思があったとは認められないというべきであり、婚姻意思の存在が認められない以上、原告と太郎との間に内縁関係があったと認めることはできないから、原告は、本件免責約款の「配偶者」に該当せず、本件免責約款は適用されない。

これも内縁の配偶者の判断について、非常に興味深い判例です。
内縁の判断のポイントの1つは婚姻意思があったか否かですが、仮に本人たちにはあったとしても、その親が認めていない場合には、総合的に考慮すると婚姻意思なしと判断されることになったようです。この点に関しては、ある程度は口裏を合わせて、証拠などについても解釈を変えてしまうことも不可能ではないと思います。(この件がそうであると言いたいのではないので、念のため。)
同居は客観的に確認できても、本人たちの主観に基づく部分があると一律に判断基準を作って運用するのはやはり難しいと感じられます。